日本画と手仕事と暮らしの覚え書き
- もう言わない。
- (2009/09/01)
- だめだ
- (2009/08/13)
- 体調はまあまあ
- (2009/08/10)
- 日記引っ越しだけどここも継続
- (2009/07/31)
- こんなこと書いてたり
- (2009/07/29)
昨日朝、火曜の昼に病猫がとうとう逝ったと、飼い主夫人が伝えに来ました。思わず手を取り合って互いに涙ぐみました。
彼の生きたことを少し文にしておこうと。
私からの呼び名は「フタ(2色なので)」、今の飼い主(我家から数十mの家の方です)は「ママちゃん」と呼んでいました。白と黒の牡猫で尻尾が長く、姿はそれは美しかった。たぶん私の家とその人の家の中間にある別荘の床下で、彼はこれも賢く愛想よく美しかった三毛猫ミケちゃんから、他の2匹の兄妹(白と茶虎の牡チャア、鼈甲三毛の牝ベコ)と共に生まれました。初めて子猫の姿を見たのがたしか1993年春。
頭はなにしろ抜群に良かった。穏やかな気質で愛想だって良いけれど、誰がどう餌付けしても絶対に家には上がらない。親や他の兄妹が逝って独りぼっちになっても、誰のものにもならない。大雪で1週間以上も(おそらく何処かの別荘の床下に)閉じ込められようが、雪を舐めて必ず生き抜いて、そのうち餌を貰いに誰かの家を訪ねる、そういう猫でした。
かつてウチでの好物は小アジ(唸って食べていましたね)。以前の愛犬、ラブラドールレトリーバーのマユが老いた頃、とぼとぼゆっくりの歩みの散歩に、チャアちゃんと同行することも度々でした。でもチャアちゃんの姿が見えなくなり、マユが逝き、やがて私が手術などで東京住まいになる頃には、今の飼い主夫婦から餌をもらうなど世話を受けるようになり、その後は我家の新しい犬のNIKOや猫達にも遠慮してか、私の家にはめったに来なくなっていました。
フタちゃんや、もう少し早く誰かのものになっていたら、皮膚癌で死なずに済んだと思うのですよ。耳先が白い毛の猫は其処から皮膚癌になりやすいのです。去年ウチで死んだ金太朗も耳先が白く、すぐ紫外線にやられて耳先が赤く縮れたものです。でも、飼い猫なら獣医師の指示で、日焼止めクリームの塗布などで予防ができました。酷くならない内に、手術だってできたと思うのです。
でもフタちゃんにはさすがにそこまではわからなかった。一昨年頃には、左頭部はもう症状が進行してどうにも手が付けられませんでした。痩せ衰えて膿と出血で酷い状態でした。そしてとうとうフタちゃんは、先の飼い主の元に身を寄せました。つまり誰かのものになったのです。私も飼い主となった夫婦も驚きましたが、たとえそうなっても「生き抜く」ことを選んだのだと私達は思っています。そんなフタちゃんに、私達はしみじみと感銘を受けるのです。
最後の頃、右目は見えていましたが、左耳、左目と潰れ、顔は半分膿んでいました。それでも私の家にやってきた先週末には、かつての美しさを忍ばせるに十分な緑のかった右目を大きく見開いて、私の動向を伺っていました。長い時間かけて水を飲んでいた姿が最後。午後3時には飼い主夫婦が迎えに来ては、大きなタオルで赤ちゃんのように大事に包んで、抱いて連れ帰っていました。
そんなになっても毎日、ええ、死の前日まで歯の無い口で餌をたくさん食べていたそうです。フタちゃんは1分1秒でも生き抜こうとしていたのです。飼い主夫婦はそれは渾身の看病でした。この1年ほどは安楽死を考えつつも、毎日頑張って餌を食べようとする姿に、最後まで看取ろうと決心したのだそうです。最後の日の前夜、それまではそんなこと一度もしたこと無かったのが、初めて夫婦の寝室の枕もとに来てニャアと鳴き、そこから昏睡となったそうです。
享年15。生き抜いた。素晴らしい姿を見せてくれました。
大好きと言わせてくれてありがとう。世話をさせてくれてありがとう。ありがとう。合掌。
彼の生きたことを少し文にしておこうと。
私からの呼び名は「フタ(2色なので)」、今の飼い主(我家から数十mの家の方です)は「ママちゃん」と呼んでいました。白と黒の牡猫で尻尾が長く、姿はそれは美しかった。たぶん私の家とその人の家の中間にある別荘の床下で、彼はこれも賢く愛想よく美しかった三毛猫ミケちゃんから、他の2匹の兄妹(白と茶虎の牡チャア、鼈甲三毛の牝ベコ)と共に生まれました。初めて子猫の姿を見たのがたしか1993年春。
頭はなにしろ抜群に良かった。穏やかな気質で愛想だって良いけれど、誰がどう餌付けしても絶対に家には上がらない。親や他の兄妹が逝って独りぼっちになっても、誰のものにもならない。大雪で1週間以上も(おそらく何処かの別荘の床下に)閉じ込められようが、雪を舐めて必ず生き抜いて、そのうち餌を貰いに誰かの家を訪ねる、そういう猫でした。
かつてウチでの好物は小アジ(唸って食べていましたね)。以前の愛犬、ラブラドールレトリーバーのマユが老いた頃、とぼとぼゆっくりの歩みの散歩に、チャアちゃんと同行することも度々でした。でもチャアちゃんの姿が見えなくなり、マユが逝き、やがて私が手術などで東京住まいになる頃には、今の飼い主夫婦から餌をもらうなど世話を受けるようになり、その後は我家の新しい犬のNIKOや猫達にも遠慮してか、私の家にはめったに来なくなっていました。
フタちゃんや、もう少し早く誰かのものになっていたら、皮膚癌で死なずに済んだと思うのですよ。耳先が白い毛の猫は其処から皮膚癌になりやすいのです。去年ウチで死んだ金太朗も耳先が白く、すぐ紫外線にやられて耳先が赤く縮れたものです。でも、飼い猫なら獣医師の指示で、日焼止めクリームの塗布などで予防ができました。酷くならない内に、手術だってできたと思うのです。
でもフタちゃんにはさすがにそこまではわからなかった。一昨年頃には、左頭部はもう症状が進行してどうにも手が付けられませんでした。痩せ衰えて膿と出血で酷い状態でした。そしてとうとうフタちゃんは、先の飼い主の元に身を寄せました。つまり誰かのものになったのです。私も飼い主となった夫婦も驚きましたが、たとえそうなっても「生き抜く」ことを選んだのだと私達は思っています。そんなフタちゃんに、私達はしみじみと感銘を受けるのです。
最後の頃、右目は見えていましたが、左耳、左目と潰れ、顔は半分膿んでいました。それでも私の家にやってきた先週末には、かつての美しさを忍ばせるに十分な緑のかった右目を大きく見開いて、私の動向を伺っていました。長い時間かけて水を飲んでいた姿が最後。午後3時には飼い主夫婦が迎えに来ては、大きなタオルで赤ちゃんのように大事に包んで、抱いて連れ帰っていました。
そんなになっても毎日、ええ、死の前日まで歯の無い口で餌をたくさん食べていたそうです。フタちゃんは1分1秒でも生き抜こうとしていたのです。飼い主夫婦はそれは渾身の看病でした。この1年ほどは安楽死を考えつつも、毎日頑張って餌を食べようとする姿に、最後まで看取ろうと決心したのだそうです。最後の日の前夜、それまではそんなこと一度もしたこと無かったのが、初めて夫婦の寝室の枕もとに来てニャアと鳴き、そこから昏睡となったそうです。
享年15。生き抜いた。素晴らしい姿を見せてくれました。
大好きと言わせてくれてありがとう。世話をさせてくれてありがとう。ありがとう。合掌。
PR
この記事にコメントする